京都のリーマンメモリーズ

京都で働くサラリーマンです。東寺や書籍の紹介をします。

【書評】訂正する力 東浩紀 朝日新書


今週のお題「あんこ」
あんこといえば饅頭ですね。幼いころはあんこが苦手で、食べられませんでした。だから、大人になるまでは、ずっと、あんこは苦手だと言っていました。しかし、大人になると、しらない間に食べることができるようになっていました。不思議ですね。でも、食べられるようになったのであれば、苦手だというのは訂正しないといけません。人間はずっと一貫したものではなく、変わるというか、変化した後、訂正していくべきものなのかもしれません。今回は、訂正することを肯定するすんごい本を紹介します。(笑)
 

【1.本書の紹介】

訂正するというと、負けたという感じがしませんか?
 
人間は、どうしても一度言ったことを変えたくない。
 
つまり、一度言ったことを変えると、ウソをついたように感じるので、発言を訂正したくないモノだと思います。
 
しかし、人間は経験を積むにしたがって、以前とは異なる考え方になる。
 
つまり、訂正をしていかないといけないようです。
 
それを、いつまでも無理して貫こうとするとそこに、無理が生じるようです。
 
さて、上手に訂正するには、一体どうすればよいのでしょうか?

【2.本書のポイント】

僕たちは「変わる」ことを積極的に選んでいくべきです。現行憲法の制定時にはいまのような国際情勢も同性婚も想定されていなかった。だとすれば、それは、憲法の精神を守りながら、新しい状況に対応するのが、本当の意味での民主主義であり、立憲主義ではないでしょうか。
 
訂正する力は、現状を守りながら、変えていく力のことです。
 
みなが声を上げるのは良いですが、それが誰にでも拍手され歓迎されるようになってしまっては、むしろ訂正する力が機能しなくなります。本当に大事なのは、自分と異なった意見を持つ人間を、すぐに理解し包摂しようとするのではなく、理解できないまま「放置」するある種の距離感なのです。
 
いまの日本人はひとが自分の意見や人生を訂正することを嫌います。だから、逆に、一度レッテルが貼られると、そのレッテルでしか仕事ができなくなる。それ以外の可能性もあるはずなのに、レッテルが邪魔をして注目してもらえない。
 
年老いた主人公がさまざまな挫折を経験しながらどんどん変わっていく。でもずっと同じ人間でもある。完全にリセットして「別人になりました」とはならない。
 
人間は弱い生き物です。感情で動かされ、判断を間違う。エビデンスを積み上げ、理性的に議論すれば「正しい」結論に到達できると言うのは幻想に過ぎません。人間は信じたいものを信じる。だからこそ訂正する力が必要なのです。人間は弱い。間違える。できるのはその間違いを正すことだけです。
 
コンテンツは、周りの無駄な情報と一緒に伝えないと本来の力を発揮できないものなのです。若い頃は、熱心に本屋や図書館に通ったものでした。本棚の間を歩き、見知らぬ本に出会うのが、何よりも楽しかった。読書と言う行為も、本当はそういった体験とセットだったのです。読書は決して孤独な行為ではない。本と言うコンテンツデータを提供することと、「本を読む」と言う体験の提供は異なった行為です。
 
日本では試行錯誤を嫌う人がたくさんいます。誤りを認めたら負けだと思っているからです。けれども、それは間違っています。試行錯誤することとは主張を曲げることとは違います。環境が変わったので、言いたいことが今までの表現だと通じなくなった。だから新しい環境でも通じるように表現を変えると言うだけの話です。それが訂正する力です。
 
未来の可能性は、過去の訂正によってこそ切り開かれると考えます。だから、できるだけ多くの過去の可能性を蓄積していくこと、こそことが、未来を豊かにすることだと考えるのです。だからぼくは、文系の学問はこれからも必要とされ続けると思います。人間が人間であり、過去を記憶する存在である限り、理系の発想だけで、社会が覆われることはありえないからです。最近は文系不要論が盛んですが、そこをしっかりと訴えれば良いのだと思います。
 
僕は常に、自分のイメージを訂正されたいし、他人のイメージも訂正したいと感じています。対話を終えて、相手が「東さんは、実はこういう人だったのか」と思ってくれて、僕のほうも、「この人は、実はこういう人だったのか」と思う。そういうものが生産的な対話だと考えています。
 
豊かな人生を送るためには、自分の価値を「実は…だった」と言う形で、何回も再発見してくれる、「訂正する人たち」が必要なのです。
 
世の中には、交換する力だけで対応できないケースがある。その時、僕たちを自由にしてくれるのは、訂正する力しかないのです。 
 
政治運動が成功するためには、リセットではなく、訂正が大事なのだと述べました。明治維新はまさにその巨大な成功例です。伝統を守る事は変えることで、伝統を変える事は守ることだと言う訂正の逆説を、実にうまく使っています。
 
民主主義は素晴らしい。けれども、同時に怖いものでもある。なぜならば、民は間違うし、暴走するからです。この両義性を理解することが重要です。
 
日本はもともと文化の国だった。政治と関わらない繊細な感性と独自の芸術をたくさん生み出す国だった。その伝統の上に戦後日本がある。クールジャパンもある。だから日本は武力を放棄したと言う理由で平和国家なわけではない。そもそもそういう伝統を持っているからこそ平和国家なのだ。ぼくは戦後日本の平和主義をそんなふうに「訂正」してみたいと思うのですが、いかがでしょうか。
 
訂正する力はヨーロッパの哲学から導き出された概念です。しかしそれは日本の文化的なダイナミズムを表現することでもある。日本は実は「訂正できる国」だった。1つの正しさに向けて突っ走っているように見えて、絶えずそれに自己ツッコミを向ける両義的な国だった。絶えず政治を脱構築する国だった。訂正する力の歴史を思い出すことが、失われた30年を越えてこの国を復活させる1つのきっかけになる。これを本書の結論にしたいと思います。
 
【目次】
第1章 なぜ「訂正する力」は必要か
第2章 「じつは……だった」のダイナミズム
第3章 親密な公共圏をつくる
第4章 「喧騒のある国」を取り戻す

【3.本書の感想】

訂正は、気にせずすべきなんですね。

 

一度言ったことを変えると、「前にこう言ったじゃないか!」と言われそうで、どうしても訂正しづらい雰囲気があると思います。

 

訂正しづらいのは、社会が訂正に寛容でないからだと思います。

 

確かに、以前はそう思った、または判断したが、今の状況で判断するとこういう判断になりましたというのは、間違ったことではないと思います。

 

訂正を行う事で、正しい道に向かう事ができると思います。

 

そして、訂正する文化が根付くと、それは、いい意味でもっと日本が成熟した国になるれるような気がします。

 

誰もが皆、「人は現状の変化をとらえて、訂正していくものだ」という認識があればもっと訂正しやすく、そして、もっと前向きな社会になると思います。

 

自分も訂正することに罪悪感を感じることはやめようと思います。

 

そして、誰かが訂正をしたら、その理由をチキンと聞いたうえで、訂正を認める態度に改めたいと思います。

 

この本は、ある種、日本人の硬直的な考え方を訂正してくれる本です。

 

今までとは違った視点で考えたい方、訂正することにモヤモヤ感を抱いている方は是非、読んでみてください!

 

訂正する力

【4.関連書籍の紹介】

新たな視点を得られます。

www.fukuikeita21.com

社会学は必要です。

www.fukuikeita21.com

日本の将来は明るい。

www.fukuikeita21.com

経営者は必読です。

www.fukuikeita21.com

最後までのお付き合いありがとうございました!