今週のお題「好きな街」
好きな街は、歩いていてイイと感じる街ですね。街並みが、歩いている人が、空が、緑がすべてにおいて五感が心地よく感じる場所ですね。今回は、そんな好きな街とは正反対の、第二次世界大戦のユダヤ人迫害に伴う悪名高き強制収容所の体験談で有名になったすんごい本を紹介します。
【1.本書の紹介】
本書は、強制収容所といういわば絶望的な場所から、奇跡的に生還した心理学者の記録です。
これまでの戦争で、日本人も加害者にも被害者にもなりさまざな記録が残されています。その中から、極限状態にある人間がいかに非人道的な行動をするものかを学んだ方も多いと思います。
本書では、強制収容所での記録ですから、とても厳しい環境体験については、もちろん記載されています。しかし、その極限の環境の中においても、どのような人間が生き延びることができたのかという事実を知る貴重な記録です。
さて、人間が生き残るにはどう考えることが大事なのでしょうか?
【2.本書のポイント】
何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってといってもいいが、とにかく生きて帰った私たちは、皆そのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。
精神医学では、いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。死刑を宣告されたものが処刑直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだ。と空想し始めるのだ。それと同じで、わたしたちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで、自体はそんなに悪くはないだろうと信じた。
わたしたちがまだ持っていた幻想は、ひとつまたひとつ潰えていった。そうなると、思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ!わたしたちはもう、みっともない裸の体のほかには失うものはなにもないことを知っていた。早くもシャワーの水が降り注いでいる間に、程度の差こそあれ冗談を、とにかく自分では冗談のつもりのことを言いあい、まずは自分自身を、ひいてはお互いに笑い飛ばそうと躍起になった。
やけくそのユーモアのほかにもうひとつ、私たちの心を占めた感情があった。好奇心だ。
人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったか思わずにはいられない。だが、どのように、とは問わないでほしい・・・。
「特定の事に直面しても分別を失わない者は、そもそも失うべき分別をもっていないのだ」異常な状態では異常な反応を示すのは正常なのだ。
被収容者はパンの、ケーキの、タバコの、気持ちのいい風呂の夢をみた。もっとも素朴な欲求が満たされていないので、素朴な願望夢がそれを満たしてくれたのだ。
そのとき思い知ったのだ、どんな夢も、最悪の夢でさえ、収容所でわたしたちを取り巻いているこの現実に比べたらましだ、と。
皮下脂肪の最後の最後までを消費してしまうと、わたしたちは骸骨が皮をかぶって、その上からちょろっとボロをまとったようなありさまになった。すると、体が自分自身をむさぼりはじめたのがよくわかる。有機体がおのれの蛋白質を食らうのだ。筋肉組織が消えていた。
人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、私は理解したのだ。
私の魂はまだ愛する妻の面影にすがっていた。まだ妻との語らいを続けていた。まだ妻はわたしと語らいつづけていた。そのとき、あることに思い至った。妻がまだ生きているかどうか、全くわからないではないか!
愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうにに、わたしの愛の、愛する妻の姿を心の中に見つめることの妨げにはならなかった。
わたしたちは、暗く燃え上がる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに鉄色から血のような輝く赤まで、この世のものとは思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲を眺めた。私たちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、誰かが言った。「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
時には即席の演芸会のようなものが開かれることがあった。いっとき笑い、あるいは泣いて、いっとき何かを忘れるために。歌が数曲、詩が数編。収容所生活を皮肉ったギャグ。すべては何かを忘れるためだ。
苦悩は大きくても小さくても人間の魂に、人間の意識にいきわたる。人間の苦悩の「大きさ」はとことんどうでもよく、だから逆に、ほんの小さなことも大きな喜びとなりうるのだ。
強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人々について、いくらでも語れるのではないだろうか。
収容所の日々、いや時々刻々は、内心の決断を迫る状況また状況の連続だった。
存在が困難を極める現在にあって、人は何度となく未来を見据える事に逃げ込んだ。これがトリックというかたちをとることも多かった、
来る日も来る日も、そして時々刻々、思考のすべてを挙げてこんな問いにさいねまれねばならないというむごたらしい重圧に、私はとっくに反吐が出そうになっていた。そこで、私はトリックを弄した。突然、わたしは晧々明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立っていた。わたしの前には坐り心地のいいシートに収まって、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、私は語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される・・・このトリックのおかげで、私はこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ、わたしをわたしの苦しみともどもわたし自身がおこなう興味深い心理学研究の対象とすることができたのだ。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」(ニーチェ)
わたしたちは生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
あなたは経験したことは、この世のどんな力も奪えない
【目次】
心理学者、強制収容所を体験する
第一段階 収容
第二段階 収容所生活
第三段階 収容所から解放されて
【3.本書の感想】
この本は、大変有名な本で、ロングセラーとなっています。
これまでもずっと、読んでみたかったのですが、恐い気もしてそのまま積読状態でした。(笑)
この本を読んで思ったのは、確かに極限状態は筆舌に絶する環境であったとしても、人は、考えることでその生命を守ることもできるのだという事がわかりました。
そして、どんなにつらい状況であっても、楽しい事や幸せな事を思いうかべることはできるし、そう思うことは誰からも奪えないということはなるほどと思いました。
そして、どんなにつらい状況であっても客観的になって今の状態を傍目から観察することで、少しでもつらい状況から離れられるという技も理解できました。
この本を読むと、生きることから何かを期待することではなく、生きることの意味を知ることが大事だということがわかります。
何のために生きているのか?
これは一人ひとりがよく考える必要がありますね。
この本は、この本を読んだという経験、知識を得るだけでなく、もっと深い事を教えてくれる本です。
今、仕事や私生活で厳しい環境にいる人にとっても、何か前向きなヒントが得られる本だと思います。
中身自体は150ページほどで、比較的読みやすくする努力が施されている本ですので、わりと短時間で読めると思います。
まだ、読んでいない方は是非読んでみてください!
【4.関連書籍の紹介】
こちらもロングセラーです。ご存じない方は是非ご覧ください。
こちらは、日々のストレスを解消し、楽しく生きる方法がわかる本です。
最後までのお付き合いありがとうございました!