最近、小説はほとんど読んでいないのですが、ふとしたきっかけで、「よし花火を上げるぞー!」と言う気持ちになったのでこれを読んでみました。
よく見るとこの題名は「火花」となっています。
私はずっと「花火」だと思っていました。
・・・私だけでしょうか?(笑)
この小説はわずか150ページ足らずのものです。
これぐらいのビジネスブックであればすぐ読めますので、楽勝・楽勝!と思っていましたら、意外と苦戦しました。
その理由は、まず1ページあたりの文字密度が非常に濃いと言うことです。
1ページあたりの文字数を人口密度を例にして表現しますと、相田みつをの本は北海道の人口密度で、この本は東京都の人口密度くらいあります。
なんとなくご想像頂けましたでしょうか?
それほど、文字が詰まっています。
別の表現で例えると、対岸まで渡る為に川底に石を置く時、普通は飛び石のように最低限の数しか置きませんが、この本は、こちら側から対岸まで隙間なく石を詰めて詰めて配置している、そんな感じです。
しかもその敷き詰めた石を大股で歩くのを許さず、すり足でゆっくり歩くことを求める、そんな小説です。
結構時間が掛かります。
面白いところが沢山ありますが、漫才師って、いちいちこんなに面倒くさい会話をしているのかと思うくらい、会話その1つひとつへのこだわり具合に感心しました。
印象に残ったのは下記です。
【2.本書のポイント】
子供の頃な、ゲームとか玩具とか普通にあったからな、それで遊んでてんけど、よく中年が、俺らの頃は遊び道具なんてなかった、とか言うやん。あれ聞くたびにな、俺、ワクワクするねん。こんなん言ったらあかんねやろうけど、ほんまに羨ましいねん。だって、ないなら自分で作ったり、考えたりできるやん。そんなん、めっちゃ楽しいやん。作らなあかん状況が強制的にあんねんで。お前やったらわかるやろ?雨上がり月が雲の切れ間に見えてもなお、雨の匂いを残したままの街は夕暮れとはまた違った妙に艶のある表情を浮かべていて、そこに相応しい顔の人々が大勢往来を行き交っていた。路傍の吐瀉物さえも凍える、この街を行く人々は誰も僕たちのことを知らない。僕たちも街を行く人のことを誰も知らない。面白いかどうか以外の尺度に捉われるなというのは神谷さんの一貫した考え方であった。面白い下ネタを避ける時、僕は面白い人間でいようとする意識よりも、せこくない人間であろうとする意識の方が勝っているのだ。神谷さんは、その部分が不良だと言った。微笑みながらテレビを見ていた小林さんが、「俺たちがやってきた100本近い漫才を鹿谷は生まれた瞬間に超えてたんかもな」とつぶやいた。その残酷な言葉に僕は思わず叫びそうになった。表情を変えずに奥を噛んだ。奥歯を砕いてしまいたかった。ビールはこんな味だったのか。山下が大声を張り上げると、一際大きな笑い声が劇場に響いた。この小さな劇場では毎日のように、お笑いライブが開催されてきた。劇場の歴史分の笑い声が、この薄汚れた壁には吸収されていて、お客さんが笑うと、壁も一緒になって笑うのだ。もしも「俺のほうが面白い」とのたまう人がいるのなら、いちどで良いから舞台に上がってみてほしいと思った。「やってみろ」なんて偉そうな気持ちなど微塵もない。世界の景色が一変することを体感してほしいのだ。自分が考えたことで誰も笑わない恐怖を、自分で考えたことで誰かが笑う喜びを経験してほしいのだ。無駄なことを排除すると言う事は、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で望めるものだけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。
【3.本書の感想】
芥川賞を受賞した作品だけあって、この作品は本業作家レベルの素晴らしい作品に仕上がっています。
これは笑いの個性に関する問題だと思いますが、著者の「笑い」を伝えるという点に関しては、難解な印象を受けました。
これは「こだわり」というのかも知れません。
分かりにくい。(笑)
でも、分かる人にはよく分かる。
ですので、漫才師の又吉の本だ!と思って買った中高生では、なかなか難解で、ササッと読めないのではないかと思いました。
この本を買った中高生は、おそらく読めずに本棚に置きっぱなしにしているでしょう。
それは、かつての私のように(笑)
文字が、そして漢字が多いです。
大人であっても、買った人の半分は最後まで読めてないんじゃないですかね。
漫才が主題の本なら、もっと気楽な読み物でも良かったんじゃないかなー。
もっと簡単に笑える本にして欲しいなー
そんな事を思いました。
しかし、又吉さんの文学愛を随所に感じる良い作品でした!
皆さんへ、お勧めの本です!
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お笑いと切ない恋の物語です。
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