知っている人は知っている、言わずと知れた名著です!
ちなみに私は、最近知りました。(笑)
【1.本書の紹介】
セネカは紀元前1年頃(約2,000年前)コルドバで生まれた人です。
西暦50年、後に暴君と呼ばれるネロ帝の家庭教師になりました。
なんと、この本は、約2,000年前に書かれた本なんです!
この本を読むとわずかではありますが、当時、ローマ帝国の中では現代と共通するような社会生活が営まれていた様子が描写されています。
2,000年前の人間が、人生の短さと時の大切さを語っていることが驚きですが、その真理は今も変わることなく受け継がれていて、2,000年もの間この本が読みつがれている事にも驚きです。
古典を読めと、様々な先人達が言っています。
それは、古典にはいつまで経っても人間が変わらない性質とそれに対する教訓が込められているからだと思います。
2000年前に生きた人の語りを聞いて下さい。
【2.本書のポイント】
我々にはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。
誰一人として、自らのために自らを自由にする権利を主張する者はいない。誰もが他人の誰かのために自らを費消しているのである。
自分の金を他人に分けてやりたいと望む人間など、どこを探してもいない。ところが、自分の生となると、誰も彼もが、なんと多くの人に分け与えてやることであろう。
賢者は、半ば自由、なかば囚われの身であることは決してなく、常に完全で確固とした自由を持ち、解放されたものであり、自権者であり、余人の上に立つ存在なのである。いかにも、運命の上に立つ者のさらに上に立つものが何かあろうか。
生のこの期間は自然のままに放置すれば足早に過ぎ去り、理性を用いれば長くすることのできるものであるが、君たちから逃げ去るのは必然である。なぜなら、君たちはそれをつかまえようとも、引き止めようともせず、「時」という、万物の中でもっとも足早に過ぎ去るものの歩みを送らせようともせずに、あたかも余分にあるもの、再び手に入れることのできるものであるかのように、いたずらに過ぎ行くのを許しているからである。
生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである。
人間的な過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠め取られるのを許さないことなのであり、どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ、彼らの生は誰の生よりも長いのである。彼らの生の寸刻たりとも人間的陶冶に費やされず、実りに費やされぬ時間はなく、寸刻たりとも他人の支配に委ねられる時間はなかった。それも到当で、時を誰よりも惜しむ時の番人として、自分の時間と交換しても良いと思う価値のあるものは、彼らには何も見出せなかったのである。彼らには生は十分な長さであった。
時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのように管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。
自分の歳月を減少させていると言う、まさにその事実が彼らには分かっていないのである。
失った歳月を繰り返してくれるものは誰もおらず、君を再び元の君に戻してくれるものは誰もいない。人の生涯は、たどり始めた道をたどり、踵を返すことも、歩みをとどめることもない。
生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。君は運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している。君はどこを見つめているのか。どこを目指そうというのであろう。来るべき未来のものは不確実さの中にある。ただちに生きよ。
矢のごとく過ぎ行くこの旅路は、何かに忙殺される者には、終着点に至るまで、その姿を表さない。
「自分は本当に生きることをしなかった愚かな人間だった。この病状から逃れられたら、閑居してのんびり暮らそう」その時初めて彼らは実際には享受できなかったもののために自分がどれほど無益な準備をしてきたか、全ての苦労がいかに無駄なものであったかを悟るのである。これに反し、あらゆる世間的な営みから遠く離れて生きる人の生が豊満でないなどということがありえようか。その生は一片たりとも他人に譲渡されることはなく、一片たりともあちこちにばらまかれることもなく、一片たりとも運命に委ねられることもなく、一片たりとも怠慢によって失われる事もなく、一片たりとも椀飯ぶるまいで減ることもなく、一片たりとも余分なものもないのである。
閑暇の人とは、自分が閑暇を享受しているという自覚をも有する人のことなのである。
全ての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。事実、そのような人が立派に見守るのは自分の生涯だけではない。彼はまた、あらゆる時代を自分の生涯に付け加えもする。彼が生を享ける以前に過ぎ去った過去の年は、すべて彼の付加物となる。
人間的な真の義務に携わっていると考えるべきなのは、日々ゼーノーンやピュータゴラースに、あるいは、デーモクリトスやその他の良き学芸の祭司たち、アリストテレースやテオプラストスに親炙する人々である。
誰もが常住坐臥、彼らと出会うことができるのである。
賢者はあらゆる時を一つに融合することによって、自らの生を悠久のものとするのである。
過去を忘れ、今をなおざりにし、未来を恐れる者たちの生涯は、きわめて短く、不安に満ちたものである。
彼らは夜の待ち遠しさで昼を失い、後朝の恐れで夜を失うのである。
王たちが己の権力を思って涙するのもこの憂いからであり、盛運の極みにあっても彼らには喜悦はなく、やがていつかは訪れる終わりに思いを馳せ、恐れを抱き続ける。
彼ら王たちの歓喜もまた怯えに満ちたものであるのはなぜであろう。それが混じりけのない確固としたものに起因しない歓喜だからであり、虚妄によって生じ、まさにその同じ虚妄によって途絶される歓喜だからである。
幸福からにせよ、不幸からにせよ、いずれにしても不安の種は尽きないのである。生は、こうして何かに忙殺され続けたまま、駆り立てられていく。閑暇は決して実現されることはなく、常に願望に留まり続けるのである。
血がたぎり、活気に満ちている今こそ、より良きものを目指していかなければならない。このような生においてこそ、数々の優れた知と行い、すなわち徳ヘの愛好と実践、様々な欲望の忘却、生と死の知、遍きものの深い平静が、君を待ち受けているからである。
何かに忙殺されるものたちの置かれた状況は皆、惨めなものであるが、とりわけ惨めなのは、自分のものでは決してない、他人の営々とした役務のためにあくせくさせられる者、他人の眠りに合わせて眠り、他人の歩みに合わせて歩き回り、愛憎という何よりも自由なはずの情動でさえ他人の言いなりにする者である。そのような者は、自分の生がいかに短いかを知りたければ、自分の生のどれだけの部分が自分のものであるかを考えてみれば良いのである。
【目次】
生の短さについて
心の平静について
幸福な生について
【3.本書の感想】
確かに、お金を取られるとすぐに取り返しますが、時間を取られたと言って取り返す人はいませんね。
「人生は短い」と言う人がほとんどだと思います。
しかしセネカは周りの為に忙殺されることなく学問に励めば、人生は十分長いと言います。
「忙しい、忙しい」と、忙しいことが正しい事のように振る舞っている人が沢山います。
セネカは、そんな人生はあっという間に過ぎてしまい、死ぬ間際でないとその失った時間の大切さが理解できないと言っています。
そして、いろんなことを考え真理を追求していくことは、自分たちの知だけでなく、はるか昔の人達の知まで融合できると言っています。
それは、今まさに、私自身が「生の短さについて」セネカから教えてもらっている事です。
2000年前の人に教えてもらっているってすごくねぇ~?(笑)
セネカはこんな事を言っているのだと思います。
人間ってすごいですね!
他の動物には負けるはずが無いですね。
知がどんどん積み重なっていくのですから、負けるわけがありません。
しかし、一方で人間は生き物なので、本能に負けてしまい、同じ過ちを繰り返してしまうことも事実です。
今回は、生の短さつまり時間をどう使うべきかということを説いています。
今、忙しいことは本当にそれで良いのか?本当に正しいのか?よく確かめて、充実した人生を送りましょう!
この本は2000前の学者が、どのように生きることが正しいのかを教えてくれます。
是非ご覧下さい!
【4.関連書籍の紹介】
命の短さを実感した瞬間、人生が充実し始めます。
人生の先輩が、我々後輩に向けて思いやりを込めてアドバイスしてくれています。
最後までお付き合い頂きましてありがとうございました!